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紙布織山内 | 紙布について

 

紙布について

SHIFU

紙布織

What is SHIFU

紙布とは
「紙布」は和紙を細く切り、糸として撚り、織り上げた布を指します。
経糸・緯糸ともに紙糸を使用したものを「諸紙布(もろしふ)」、経糸に絹糸や綿糸を用いて、緯糸のみ紙糸にしたものを、それぞれ「絹紙布」「綿紙布」と呼びます。経糸に異素材を用いる理由は、織機での張力負荷に紙糸が弱いことや、諸紙布に比べて軽やかな風合いに仕上がるためです。

歴史
紙布は江戸時代を中心に多く作られたことが分かっています。紙漉きの産地のみならず、書き損じや反故の再利用として、日本各地で作られていたようです。
明治以降、機械紡績や機械織機の普及により、安価な布製品が広く流通するようになると、紙布の文化は次第に衰退していきました。

素材特性
織り上がったばかりの紙布は張りのある質感ですが、使うほどに柔らかく、肌に馴染んでいきます。
また、一度紙として繊維を結束させたものを糸へ加工するため、ほかの素材と比べて繊維の毛羽立ちが少なく、表面は滑らかです。さらに、和紙に由来するとされる消臭性や抗菌性などの特徴を備えます。湿度調整にも優れることから、夏は涼しく、冬には暖かく感じられます。

 
石州和紙

SHIFU in Iwami

石見地方
紙布織山内が工房を置くのは、島根県西部の石見地方です。
この地域は、『日本書紀』にも「石見国」とあるほど、古くからひとつの文化圏として認識されていました。日本海沿岸には複数の港があり、さらに日本海と瀬戸内海を接続する「江の川」は交通路として機能し、物資や文化の往来を支えていました。
近代以降、道路や鉄道の整備によって舟運は次第に衰退し、この地域を行き交う人や物の流れも変化していきました。結果として、大きな開発や都市化の波が緩やかになり、古くからの生活文化や素材文化が今日まで受け継がれてきたとも考えられます。 

石見地方の紙漉き
この地方における紙漉きの歴史は長く、8世紀初頭に石見国へ赴任した柿本人麻呂がその技術を伝えたという伝承も残ります。
この土地で育つ楮(こうぞ)は繊維が長いことに加え、甘皮を残して漉く独自の製法によって、高い強度を持つ和紙になると言われています 。そのため、江戸時代には市場価値が認められ、米年貢に加えて和紙も年貢として徴収されました。
その後、紙漉きの技術は時代の変化を乗り越えて受け継がれ、「石州和紙」の名称で1969年に国の重要無形文化財、2009年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。

石見地方と紙布 山間地の多いこの地域では、麻や綿などの繊維原料を大規模に栽培することが難しく、入手可能な和紙を用いて布を作る工夫がなされたと考えられます。 また、冬季には積雪も多く、衣料の確保は生活において重要な意味を持っていました。紙布は、そのような地域の暮らしで重宝された布のひとつでした。 紙布は擦り切れるまで使用され、最終的には虫除けのための煙出しとして燃やされたと言われます。そのため現存資料は少なく、農作業着や布団地、こたつ掛けなどがわずかに残るのみです。 石見地方に残る紙布には無地のものが多く、染色も藍染めや粉墨(桐の灰)など、比較的簡素なものが中心です。日常使いの布にも縞や絣を取り入れる地域が多い中、その簡素な布地には、この土地の生活感覚が表れているように感じられます。

 
紙布織家

Continuity and loss

なぜ失われたのか
江戸時代を中心に生産された紙布は、時代の変化とともに人びとの暮らしから徐々に姿を消し始めました。
石見地方においては、江戸幕府の終焉によって紙年貢を藩へ納める必要がなくなったことや、耕作物の制約もなくなり、木棉などの繊維植物を育てられるようになったことも、その一因として考えられます。
さらに近代以降、織物の大量生産が一般的になると、布製品は各家庭で作るものから、購入するものへと変化していきました。
民藝運動を興した柳宗悦が、全国で手仕事の蒐集を行うなかで、庭先で燃やされようとしていた織物を救い出したという逸話が残るように、人の手によって時間をかけて生み出されるものは、古いものとして手放されていったことがうかがえます。

なぜ継承が困難か
手間と時間を掛けて生み出され、暮らしのなかで使われた布は、たとえ小さくて擦り切れていようとも、工業製品には見られない質感が宿ります。しかし、その美しさを評価することと、それを現代社会のなかで継続的に生産していくことの間には大きな隔たりがあります。
継承の困難さは、単に技術の問題だけではありません。長い時間をかけて生まれる手仕事を、素材や道具、生産環境、そして人の営みまでも含めて、現代社会でどのように維持していくかという問題でもあります。