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概要

紙布織山内 | 概要

 
紙布織

紙布とは

和紙を細く切り、紙縒(こより)状にして作った紙糸を使用して織られた布で、経緯に紙糸を使用したものを諸紙布(もろしふ)、緯糸のみ紙糸を使用し、経糸に絹糸・綿糸を使用したものをそれぞれ絹紙布・綿紙布と呼びます。経糸に異素材を用いるのは、織る際のテンションに紙糸が耐えられないことや諸紙布よりも柔らかな風合いを出すためとされています。

紙布は、張りや硬さを感じる肌触りが特徴です。また、一度紙として繊維を固めたものを糸にするため、他の素材と比べて繊維の毛羽立ちが少なく、表面が滑らかです。その分耐燃性が高く、昔はコタツ掛けとしても使われていました。和紙の持つ消臭性や抗菌性といった特徴に加え、湿度調整にも優れることから、夏には涼しく、冬は暖かく感じるのです。

紙布は、紙漉の産地では副業的に生産され、多くは、農民が自分たちの生活に必要な布として使用していましたが、紙漉の産地以外でも、書き損じの和紙から紙布を作ることがあり、一般的にも使用されたていました。しかし、明治以降の産業革命に伴って、繊維業界にも変革が起こり、廉価な布の流通によって、紙布はほとんど生産されなくなりました。

 
石州和紙

石州和紙

西暦700年代初頭に柿本人麻呂が石見の国の守護として赴任した際、この地に紙漉を伝えたとされています。以来、石州和紙は、この地方の特産品となり、その歴史は現在まで続いています。石見の楮は、他のものよりも繊維が長く、製法にも楮の甘皮を残す特徴があり、日本一強靭な和紙といわれています。その強靭さ故、江戸時代には大阪商人に重宝され、火事の際には、これを井戸に投げ込んで、台帳を火の手から守ったそうです。1969年に国の重要無形文化財、2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。

石見地方での紙布の起源は不明ですが、紙として用をなさない楮のカスから紙状のものを作り、紙布とした可能性が考えられています。また、江戸時代には年貢として米と和紙を課せられたため、他の繊維素材(麻や綿など)を栽培する耕作地の余裕がなく、手に入る和紙から日常の布を作らざるを得なかったとも考えられています。雪の多い山陰地方において、身に纏う布一枚の差は生死を分けるものであり、そういったギリギリの状況の中で紙布は作られていたのだと推測できます。

宮城県白石産の紙布などは、将軍家にも献上され、礼服として使用されるなど、その名が全国に知られていますが、石見地方において、紙布は、あくまで庶民の具であり、農作業着や布団、コタツ掛けなどが現存しています。他の地域では、日常の布にも縞、格子、絣などで彩りを添えることが多い中で、この地方に現存する紙布は、ほとんどが無地であり、染めは藍染めや粉墨(桐の木を焼いて作った墨)で行われていました。

※上記の内容は、石州和紙の歴史や金城民俗資料館を訪れた際に伺った「西中国山地民具を守る会」会長の隅田正三氏のお話をもとにしています。

 
紙布織家

紙布織家として

紙布との出会いは、2015年、京都の「染司よしおか」の草木染めのワークショップでカナダ在住の作家、軽野裕子さんと一緒に茜染めをしたときです。その後、京都の「ギャラリー啓」で軽野さんの紙糸を拝見し、木綿のような質感に驚きました。軽野さんの著書「生紙と紙糸」を参考に試行錯誤を重ね、本格的に紙布織での作品制作を開始しました。

島根県川本町に移住後、石州和紙の工房をまわり、それぞれにサンプルなどを頂いて、糸作り、布作りの試作を行いました。はじめて石州和紙での糸作りを行なったときには、他の和紙とは違う滑りや粘りを感じ、作業中に糸が切れにくいことにも驚きました。また、完成した布にも、しっとりとした感触と弾力性があり、見た目にも美しく、たちまちその魅力の虜になってしまいました。

しかし、紙布織は、織りの工程までにも多くの時間と手間を要する分、作品の価格を上げざるを得ず、生業として考えることにはどうしても躊躇がありました。それでも、紙布には、染織を志す者にとっては抗いがたい魅力があり、また、周りの方々からの温かい励ましの声もあって、紙布織家として生きていくことを決意するに至ったのです。